今回の「HintClip」はグラフィックデザイナーの上條喬久氏に「カレンダー」について執筆をお願いしました。長年にわたり企業カレンダーのデザインに関わり、多数の受賞歴を持つ上條氏ならではの「暦」や「時」への考え方が書かれています。
「企業の文化的メッセージを伝えるコミュニケーション手段」「人々の生活空間に潤いを与える印刷媒体」といわれる「カレンダー」ですが、あらためて、その文化や役割、価値について考えてみたくなるコンテンツです。

時の感覚 カレンダー考

動物はカレンダーを持たない。しかし、体内時計があるので、何も不自由はしない。季節だって分かっている。植物も同様に季節を正確に把握している。考えてみると、カレンダーを必要としているのは人間だけだろう。
 そして、カレンダーは社会生活を成り立たせるための世界共通の約束ごとになっている。だから、世界の中心にカレンダーがあるといっても、けっして過言ではないだろう。
 カレンダーは時間と関わりが深いので、時間という自然現象と同一だと思われているが、実は時間の人工的な見取り図といえる。
1年が12ヶ月、1カ月の日数、1週間が7日というのも人工的に決めているに過ぎない。これは、人間だけが理解できる概念で、動物には全く理解されない。つまり、カレンダーは人間だけの物である。
 カレンダーの機能は数字なので、数字だけでも、カレンダーの役目は果たせる。しかし、カレンダーをデザインする時に、数字以外に時間の感覚や季節感など、さまざまな要素が求められる。それを表現することが一番の苦労であり、愉しみでもある。
 その苦労の成果が、「全国カレンダー展」に毎年多数出品され、出来映えを競っている。
そして、毎年、カレンダー展のカタログが制作されていて、私はカタログの表紙のデザインを担当している。写真と文章で、時間という掴み所のないモノをなんとか見えるカタチにする努力を続けている。
 今回は、2005年から2022年までの記録を掲載した。時の感覚を楽しんでいただき、カレンダーの制作に、少しでもHINTになればと願っている。

2005

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早朝の散歩にカメラを持って出た。
ふとその気になったからで、特に目的があった訳ではないが、ちょうどカレンダー展のカタログのデザインを依頼されていたので、なんとなくアイデアをころがしながら歩いていた。
カレンダーという器には何でも盛り込めてしまう。
言ってみれば、「何でもあり」の世界だ。それだけ迷いも多い。
歩いていると、黄色と赤色の脚立が森をバックに、パッ、と眼に飛び込んで来た。その瞬間、アッ、CALENDARだと思った。
脚立が前半と後半の二つの「A」に見えたのである。そして、思わずシャッターを押していた。

2006

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カレンダーの日付けの数字を「玉」という。
辞書を引いても出てこない。つまり、業界用語である。
普通、カレンダーはこの玉と絵、あるいは写真でできている。
視覚的な狙いのカレンダーほど、この玉が極端に小さく扱われることが多い。
だが、考えてみれば、玉だけのカレンダーは成立しても、絵や写真だけではカレンダーとはいえない。だから、玉はカレンダーの重要な主役なのである。
主役といえば、この写真は私の石の彫刻で、たまたま玉の平面的パターンを彫ったものだ。こちらも玉を主役にしている。

2007

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カレンダーの日付けの数字を「玉」という。
辞書を引いても出てこない。つまり、業界用語である。
毎年365個の玉が一年を飾る。視覚的に感じるために、お馴染み7色のマーブルチョコレートを365個用意してみた。
はみ出したり下に隠れたのも少しあるけれど、これが一年分である。多いとも少ないとも感じるが、何だか楽しくて美味しそうな一年に見えてくるから不思議である。
玉の数字は大切だけれど、やはり視覚的な演出がカレンダーの楽しさ、美しさ、そして醍醐味だろう。

2012

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「玉」は何処から?

カレンダーの日にちの数字を「玉」という。
だが、広辞苑を引いてもその意味は出てこない。
よほど特殊な用法なのだろうか? 誰でもカレンダーに日常的に接している。
カレンダーに関係のない人なんて居るのだろうか? それだけポピュラーなのに「玉」は一般的に知られていない。
では、何処から来た言葉なのか。
日にちの元は日、つまり太陽だろう。太陽こそが「玉」の源のような気がするが、果たして、これは勝手な想像である。

2013

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「自然と人工の対比」

カレンダーとは「時」という大自然の営みを人工的に目に見える形にしたものだ。
人々の営みがカレンダーの日々に織り込まれていく。
ともすれば、忙しさに追われて大自然の営みを忘れてしまいがちだが、忙しさと喧噪のなか、ふと見上げれば、そこには街の細長い青空がくっきりと抜けている。
自然と人工の対比が新鮮に感じられ、気分一新。きっと活力が湧いてくるだろう。
今年も、そんな活力のあるカレンダーに出会いたいものである。

2014

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「日本人って、スゴイ!」

えーと、今年は何年だっけ? なんて干支を忘れることもあるけれど、巳の次は午、つまり蛇の次は馬の年です。
平成になって四半世紀、21世紀になって早14年経ち、2014年になった。この三つの異なる時間軸を日常的に使い分けている民族は日本人だけのような気がする。
考えてみれば、これはスゴイことなのだろう。
文字だって、漢字、ひらがな、カタカナ、A・B・Cアルファベットと四つの文字を駆使している。これは、よほど優秀な文化といえるのではないか?
日本は日本人が考えている以上に優れた文化を持っている、ような気がしてきた。
日本人って、スゴイ!

2015

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「俯瞰の視点」

鎌倉のお土産屋の店頭にあったミサンガである。
見たとたん、あ、何かを象徴していると思った。籠の中のたくさんのミサンガのなかから自分の好きなものを探し出すために、客はぐるぐるとかき回すだろう。
この写真の姿は次の客が手に取るまでのほんのわずかな時間に存在した姿だ。
だが考えてみれば、これは、すべての客が一人ひとり参加して積み上げた結果ともいうことが出来る。偶然が幾重にも重なってできた形だ。
一年間の姿も、もしも俯瞰してみることができたら、案外、こんな姿をしているかもしれない。
一生もまた然り、かな。

2016

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「自然と人工」

腕時計を外してから久しい。
社会とコミットするためには、もちろん、正確な時間は必要だ。
しかし、腕時計に頼らなくても、ケイタイも、パソコンもある。不自由することは無い。
腕時計をしなくなってから、気が付くと、本来備わっていた「体内時計」が動き始めた。いまでは、毎朝、目覚まし時計なしに、ピタリと7時に目が覚める。時計がなくても、ほぼ正確に時間が分かり、5分と違わない。日常生活に不自由はない。
さて、時間はすべて自然現象と思われがちであるが、時間には「自然と人工」の2種類がある。体内時計は自然の時間で、腕時計は人工の時間なのである。
では、カレンダーはどちらの時間なのだろう? 
当然、人工の時間だ。 だから、デザインの役割が大きいのである。

2017

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久し振りに浅草に行った。
日本人よりも外国人の方が多いのではないか? の印象にちょっと戸惑いながら仲見世を歩く。
煎餅屋のウインドウが見える。一瞬、なんだか懐かしいリズムを感じた。見たことのある表情で煎餅が並んでいる。
日、月、火、水、木、金、土。まるで、カレンダーのような、7つのリズムである。当たり前のように、人はこの7つのリズムで生活している。世界は7のリズムで回っている。
考えてみると、1週間が7日、は絶妙な時間の間隔である。6とか5では忙しない。8や9では間延びがする。実に7日という単位はちょうど良いリズムである。誰が、何時、どのような理由で決めたのか定かではないが、改めて良くできていると思う。
煎餅をボリボリかじりながら浅草寺に向かう。

2018

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時の重み

100年経った美術的価値の在るモノをアンティークという。
アンティークでなくても、10年、20年経ったモノには、時の重みという貫禄が滲み出てくる。
宇宙的な時間は永遠の現在形だから古くも新しくもならない。
ところが、暦という人工的な時間には過去、現在、未来という、3つの時間が存在する。
とはいえ、過去とか未来という時間が何処かに蓄積されていて、見える訳ではない。
人間が生きている時間も、実は、 永遠の現在だけなのである。
アンティークや古道具はその生まれた時で止まっているから、その変化に時の重みが蓄積されて、過去の時間が見えるように錯覚するのだろう。
ところで、カレンダーのアンティークはほとんど見かけない。
在ったとしても、歴史的な資料でしかないようだ。それは、カレンダーが一年限りの命として誕生する宿命なのだろう。

2019

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時間と空間
動くものと動かないもの

この写真を見た人は「歩く人」が動くものであり「石のベンチ」が動かないもの、と思うだろう。
実は、全体の空間も動かないのだ。
時間と空間は、「動くもの」と「動かないもの」と、言い換えることができる。
人間は「動くもの」に属し、石のベンチは「動かないもの」に属している。つまり、人間は時間に属しているから生きているといえるのだ。
もしも、この世界が全く動かないものだけでできていたら、空間はあるが、時間を感じる事ができないだろう。
地球が自転し、太陽の周りを一年かけて公転しているから、時間が刻々と動いていると感じることができる。そして、地球の動きを「暦」の形にして共通の時間を定めた。
カレンダーは眼で見る時間である。

2020

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ゆるやかな変化

東京駅、新幹線のプラットホーム。なにげなく足下の床を見ると、2つのピラミッドにピンクの雲が棚引いているように見えた。
奇麗だ。まるでアート作品ではないか。しばらく眺めていても飽きない。床の人工石の変化しないシャープな形と、テープの擦り切れた柔らかに変化する形のコントラストが、時の流れを感じさせて美しい。
考えてみれば、カレンダーも同様に、変化しないものと、変化するものでできているのではないか。
つまり、基本の1年365日は変化しないが、年が変わればカレンダーも変わる。1年、1年と、さまざまな出来事が積み重なって、ゆるやかに変化を続けている ・ ・ ・ ・ ・と、考察していたら、ホームに電車が入ってきた。

2021

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地軸の傾き

毎年3月初めになると空を見上げ、桜の蕾を確かめる。
初めは桜のイメージにはほど遠く、小さくて硬い。徐々に色づいてくるのが見えると、ワクワクする。桜の木全体が赤みを帯びてくる姿は、開花よりも桜の生命力を感じる。季節はそうしたさまざまな生命力によって綾どられている。
考えてみれば、この「季節」は地球の自転軸が太陽の周りを回る公転軸に対して23.5度傾いていることによってもたらされている。この微妙な傾きがもたらす恩恵は計り知れない。
もしも、この傾きが無かったなら、季節は無くなってしまう。一年中暑い所は暑く、寒い所は寒いだけの、実に味気ないものになってしまうだろう。
だから、桜の蕾を見ると、この地軸の傾きを改めて思い出し、感謝の気持ちが湧いてくる。 
カレンダーの魅力もまたこの「季節感」だろう。つまり、地軸の傾きのお陰なのだ。

2022

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時の感覚

時の流れを線で表現すると、どんな線になるのだろう。
時は一定のリズムを刻んで正確に流れているから直線で表せる、というのが大方の意見だろう。
確かに、時計やカレンダーは正確なリズムで成り立っている。だから当然、直線のイメージになるのだろう。 
子供の頃の1年は気が遠くなるほど長かった。今は、年々短くなっているように感じる。
だから、人間が本来持っている体内時計で感じる時の流れは一定ではない。体調や年齢によっても異なるし、その日の天候や季節によってさまざまなバリエーションがある。
そして、何よりも、感覚的に時を捉えると、2、3時間でもアッという間であったり、待っている10分は1時間に匹敵するくらい長い。つまり、曲線だったり、グニャリと曲がっていたりする。
どちらが、時の流れの実態なのだろうか。
とはいえ、カレンダーをデザインする時、体内時計的な時の感覚をデザインする訳にもいかない。
カレンダーを使用する各自が自分の感覚で使いこなせば、それで良いのだろう。

kakui-portrait-small.jpg上條 喬久 ( かみじょう たかひさ )

1940年東京生まれ。東京藝術大学卒業。
1972年株式会社上條スタジオ設立・主宰し現在に至る。
東京ADC会員、JAGDA副会長、理事などを歴任。
東北芸術工科大学教授(1992-2009)。
1968年日宣美賞、1969年、74年、75年東京ADC賞。
1982年全国カタログポスター展通産大臣賞、1983年日本の絵本賞。
1990、1991、1992、1997、1999、2000、2001年全国カレンダー展通産大臣賞。
1994年全国カレンダー展内閣総理大臣賞。
著書に『MAIL ART COLLECTION』(1988年グラフィック社) 『WINDSCAPE MINDSCAPE』(1994年用美社) 『ゼロポイント 原点の風景』(2001年六耀社)

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